司令と桜花のこと
司令の経歴に興味がわき、桜花721部隊(通称神雷部隊)の作戦行動について調べました。最初の出撃はレイテの敵機動部隊が目標でしたが、敵の攻撃を受けてから10数分で全滅しています。これ以降集中運用はしていません。その時、この攻撃部隊(指揮官野中少佐)を迎撃したのはベローウッドとホーネットの戦闘機隊です。ホーネットはエセックス級の二代目で、まさにゲートキーパーズに登場する航空母艦です。
司令が出撃したのは、昭和20年5月4日、菊水5号作戦です。海軍特攻機100、陸軍特攻機50という陣容でした。神雷部隊は桜花攻撃隊7機、250爆戦20機でした。桜花は未帰還5機で、アメリカ側によると2機の桜花によって機雷敷設艦一隻が大きな損害を受け、掃海艇が若干の損傷を被ったとされています(以上「桜花」内藤初穂 中公文庫より)。これは沖縄の守備軍の総攻撃に対応したものでした。
「カミカゼ」KKベストセラーズによると、他に機雷敷設艦ヘンリー・A・ワイリー(これらの敷設艦は駆逐艦を改装したもの)が桜花によって損傷したとあります、ただしこちらは通常機による攻撃の損害の方が大きかったので、「桜花」ではカウントされていないのでしょう。これも含めると3隻に損害を与えている事になりますが、撃沈はしていないようですね。司令のように、実際に墜落した一式陸攻で生き残り、救助された人もいます。司令を救助したのはたぶんレーダーピケット駆逐艦だったものと思われます。特攻攻撃で一番犠牲を出した配置でした。
司令は昭和2年8月15日生まれだそうで、終戦の日に18歳だった事になります。沖縄戦の時は浮矢と同じ17歳ですね。年齢的には高等小学校を卒業後入隊する乙飛予科練生、あるいは中学を卒業後の甲飛予科練生だったものと思われます。
同じ特攻機でも、桜花より爆戦(爆装した零戦)の方が遥かに大きな戦果を挙げています。これは当然の事で、通常機の方が自力飛行能力がある分融通が効いたからです。一般の飛行機は雲に隠れ、低空飛行でレーダーを避けるといった芸当が可能でした。
それに対して桜花はあくまでも滑空機であり、装備しているロケットは降下速度を増すだけで、母機から離れると落ちていくだけでした。桜花の滑空距離は母機の高度の10倍程度に過ぎないので、ただでさえ桜花を抱えて鈍重になっている一式陸攻がレーダーに捕捉されるのを覚悟で高度をできるだけ上げなければなりませんでした。当然母機ごと敵に喰われる機体が続出しています。
桜花のメリットは1200kgという巨大な弾頭だけでしたが、結局開発の意義はほとんど無かったと言っても過言ではないでしょう。ただ、桜花のパイロットであったという経験が、司令のメンタリティに及ぼした影響がきっと大きいものと思われます。
さて、桜花と言えば最初の攻撃隊指揮官、野中五郎少佐抜きにしては考えられません。
野中五郎少佐は226事件の首謀者のひとり、陸軍歩兵第三聯隊の野中四郎大尉の実弟でした。有能な軍人であると同時に変人でした。
着任した士官への挨拶。「遠路はるばる若い身空でご苦労さんにござんす、てめえは野中というケチな野郎で、ま、奥に通んな」「おまえさんがたの着任は電報で先刻承知の助だ、物資節約の折から名刺などしまっておきな」
兵下士官への自己紹介「顧みるに、一空開隊当初より大小合戦250余たび、いまだかつて敵に後ろを見せた事はねぇ、かくいう俺は海内無双の弓取り、海軍少佐、野中五郎であ〜る!」
上官や古参の兵員は冷たい目でみるけど、本人は少しも気にした風はない、そのうち皆が少佐に感化されていく。出撃の時は、非理法権天、南無八幡大菩薩の大のぼりに何故か少佐が5歳の息子から頼んで借りてきたという鯉のぼり。「ものども、かかれ!」と少佐が号令をかけると、皆「がってんだ」と機体に走る。この妙な台詞は海軍兵学校の生徒の時からのクセで、1号生徒の時、下級生への訓辞に凝りすぎて毎回徹夜するので、一度落第したそうです。
それでも、陸上攻撃機への道に進んでからはめきめきと頭角をあらわし、名指揮官となりました。本人は背が低く、ずんぐりしており、丸坊主で、イガクリ君みたいな人だったようで、その言動と併せて、いかにも豪傑といった風でしたが、家族や親しい友人によると、実は非常に繊細で優しい人だったそうです。家族の前では、べらんめぇ口調など一度もした事無く、自分は本当は臆病で、死ぬのが怖いから、そうやって追い込んでいるのだと話していました。
こんな人でしたから、桜花部隊の実戦指揮官となってから、苦悩は大きかったようです。桜花という兵器の欠点を知り抜いていて、国賊と呼ばれてもいいから、この作戦を断念させたい、どうせ戦死するならばまともな攻撃がしたいと言い続けていました。それでも、責任感の強い人だったので、一次攻撃が決まった時は「湊川だ」と言っただけでした、最善は尽くすにしても、その戦果に何の幻想も抱いていなかったのでしょう。
少佐は飛び抜けて若い搭乗員をどう考えたでしょうか?張り切っている17歳の搭乗員をきっと痛々しく感じたに違いありません。可能であればなんとしてでも生き残って欲しいと思ったのではないでしょうか?
「自分は、命は惜しくありません、皆と一緒に往きます」「そうか、でも生き延びる機会があったら、その命貸しにしといてやる、催促無しの ある時払いだ、ありがたく思いやがれ、そして返すべき時が来たらきっちり返せ!」
司令が、その言葉をかみしめながら戦後を生きたというのはどうでしょう?
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