ヨタハチ特集 ウキヤとイクサワの物語 文/ブラックストーン
日本のスポーツカーが欲しい
パブリカの開発が一段落した頃、長谷川龍雄に一つのアイデアが生まれた。パブリカをベースにしたスポーツカーである。エンジンはシンプルな分チューンする余裕がある。モノコックボディを前提としているから車体は軽量にできる。少し手を加えればサスペンションもスポーツカーとして充分通用するだろう。もちろんパブリカのエンジンの出力はチューンしても限られているが、軽量な車体と空気抵抗と路面抵抗の減少でカヴァーできないだろうか?
それはかつての日本の航空機と同じ条件であった。日本の航空機は常にエンジンに悩まされた。信頼性の高いエンジンは欧米に比べて出力が低く、高出力を狙ったエンジンは故障しがちで稼働率が落ちた。そのために、日本の航空機技術者は機体の空力的な洗練と、軽量化によって非力なエンジンを補わなくてはならなかった。長谷川はかつての航空機技術者としての経験を思い出していたかもしれない。
1962年の全日本自動車ショーに登場した「パブリカスポーツ」はまさに地上の航空機といった雰囲気の自動車であった。全体的なフォルムは航空機の翼断面に似ていた。実際に車体デザインの決定にあたっては、防衛大学校の風洞を借りて実験が行われた。
人々の目をひいたのは扉がなく、ルーフとサイドウィンドウが一体になったスライドキャノピーであった。このキャノピーは脱着が可能で取り外すとオープンカーとなり、それがまた非常にスマートだった。このキャノピーのデザインはアメリカの戦闘機P80シューティングスターに触発されたと言われている。そして、何よりもその美しい洗練されたボディは人々を魅了した。
ヨタハチ誕生
もとは試作のみに終わるはずだった23A(パブリカスポーツの社内でのコード)だったが、その評判からスポーツカーとして市販される事が決定された。長谷川は179A(のちのカローラ)の開発も平行して行っていたために非常に多忙な毎日となった。また、トヨタの開発部に余力がないために製作は関東自動車工業に依頼する事になった。
長谷川はここでも航空機のイメージを求め、新しいボディは関東自動車工業の風洞実験で検討された。また試作車の表面に細かく毛糸を貼り付けて走行試験を行った。これは航空機の開発手法と共通点が多かった。空気の乱れが発生すると毛糸が剥がれるので、場所が特定できるのである。
市販にあたっては、認定の問題が生じるのでスライドキャノピーは廃止された。側面にはドアは設けられて、ルーフだけが外せる「タルガトップ」が採用された。その他にも曲面ガラスが採用され、ヘッドライトにはアクリルのカバーが付き、ボディと一体となった。 軽合金とFRPが材料として多く使われ、車重は580キロという軽さに収まっている。
エンジンは吸排気系を中心にチューンされ、排気量は700ccから800ccに拡大された。1964年のモーターショーでお披露目された時には、名称はトヨタスポーツ800となった。トヨタの名称は、この車の技術力に対するトヨタ誇りの現われであった。
ちなみに、「タルガトップ」が初めて名づけられたのは、1965年、フランクフルトモーターショーで911タルガとして発表されたPorsche911である。これは、オープンモデルであったPorsche356の生産打ち切りに変わるものとして用意されたもので、このころポルシェが活躍していた、「タルガ・フローリオ・レース」に由来する。つまり、ルーフの形式としてはトヨタスポーツ800の方が明らかに先行しているのだが、このあたりの解釈はどうなっているのだろうか?
ポルシェが「タルガトップ」を採用したのは、「Tバールーフ」と同じく転倒時の安全確保のためであるが、トヨタスポーツ800の場合はスライドキャノピーのイメージを重視した結果なのかもしれない。それでも、本当はΓヨタハチトップ」と呼んでも良いかもしれないと思う。
1965年ついにトヨタスポーツ800は発売された。
以下にその流れをみてみよう。トヨタスポーツ800(UP-15)は生産次期に応じていくつかの夕イプに分ける事ができる。
1965/66/67年式
最初の生産型である。パブリ力のエンジンをチューンした2Uエンジンと軽量で空力特性にすぐれたボディによって、最高スピード時速155Kmを発揮する。この生産型は外観に変化は無いが、1967年よりトランスミッションとジェネレーターに改良があった。
力ラーは・セミノールレッドとアメジスト・シルバー・メ夕リックの2色である。
生産は一貫して関東自動車工業があたり、台数は1965年に1235台、1966年が703台、1967年が538台である。
1968年式
主として防音安全面での改良を加えたマイナーチェンジで、外観も若干変わった。また、カラーにジルコン・ブルー・メタリックが追加された。生産台数は440台である。
1969年式
最終型である、フェンダーサイドにシグナルランプが追加されている。生産台数は215台にすぎない。ちなみにゲートキーパーズに登場したのはこの年式のブルー・メタリックのヨタハチである。
この年、ヨタハチは惜しまれつつ生産を終了した。その理由は燃焼式ヒーターだと言われている。このオプションヒーター(ラジオとセットだった)は暖かいのが評判で、冬でもオープンで走れる程だと言われていたが、ユーザーの取り扱いミスによって火災を発生する事があった。総生産台数は3131台である。
ヨタハチは現在もまれに街角で見かける事があるが、そのデザインコンセプトは未だに新鮮であると言えよう。スポーツカーとして尖がったところは無いが、それでいて非凡な性能を兼ね備えている。
年輩の人の多くはこの車をみて微笑み、女子高生はカワイイと言う、殆どの人が30年も前の車だとは思わない。ヨタハチは、そんな日本人が生んだスポーツカーである。
參考文獻
・「懐かしの高性能車 I」中沖 満 グランプリ出版
・「1960`S 日本の名車たち」横越光広 グランプリ出版
・「マン・マシンの昭和伝説〈上・下〉」前間孝則 講談社
・「日本軍用機写真総集」雑誌「丸」編集部 光人社
・「トヨタ2000GT/スポーツ800〜トヨタの2台のスポーツカー」ネコ・パブリッシング刊
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