ヨタハチ特集 ウキヤとイクサワの物語 文/ブラックストーン
それは終わりから始まった
このヨタハチはどのようにして生まれたのだろうか?
1960年代は日本の自動車技術の成熟期であったかもしれない。乗用車がタクシーや公用車ばかりであった時代は終わり、確実に一般の人々がそれを普通乗り物としつつあったし、動力性能は現在と比べても遜色が無かったと言って良い。また、現在先端的と考えられている技術も、機械工学的なレベルであればそれらはすでに存在していた。日本の自動車が、大きな障壁である排気ガス規制にぶつかるのは、まだ少し先のことである。
トヨタスポーツ800(UP15)の登場はそんな時代を反映していたと言えるであろう。そして、それは一人の技術者の個性と密接に結びついていた。長谷川龍雄、それがその技術者の名前である。
長谷川は元々は航空機技術者であった。東京帝国大学の航空学科を卒業すると、彼は立川飛行機に入社した。立川飛行機では与圧された操縦席を持つ高高度迎撃戦闘機キ94の開発チームに加わった。キ94の開発は、その目標であるべきB29の日本本土爆撃が開始されているなかで行われたのである。
当時の日本の戦闘機はB29の飛来高度である1万mに達すると、浮いているのが精一杯という状態であり、戦闘には大きな困難を伴った。キ94はそれを打開する筈の存在であったが、その開発の遅れは日本とアメリカの国力の差を象徴していた。結局キ94は戦争には間に合わず日本は敗北した。そして、長谷川だけでなく、全ての航空機技術者が翼を失った。
戦後、日本の航空機技術者の多くが自動車工業界に転進した。長谷川もその一人である。立川飛行機の技術者の多くが「東京電気自動車」(後のプリンス自動車)移ったが、長谷川はトヨタに入社した。一説によると目立たない技術者であった長谷川に声がかからなかったとも言われている。長谷川がプリンス自動車を経て日産に移っていたら、日本の自動車の歴史は変わっていただろう。長谷川はトヨタの地位を不動のものとした傑作大衆車カローラを後に生み出すのである。
一家に一台乗用車を
1955年、政府は自動車工業振興の方策として戦前のドイツのフォルクスワーゲンを思わせるような「国民車構想」を発表した。しかし、メーカーの反応は冷ややかであった。それでも、1955年にスズライト、1958年にスバル360が出現する。特にスバル360は技術力に定評のある富士重工(戦前の中島飛行機が前身)だけあって、360ccの排気量ながら強力なエンジンをリアに搭載して、まさに日本版のフォルクスワーゲンといった雰囲気であり、ベストセラーとなった。庶民が車を持つという夢を最初にかなえた車だった。
しかし、トヨタは軽自動車とは距離を置いていた。ヨーロッパでのミニカーブームとその衰退をみて、いずれ軽自動車よりワンランク上の自動車をユーザーが求めると判断したのである。トヨタはこれに対応する1000cc程度の乗用車の開発を行う事を決定した。これがトヨタによる「国民車構想」への回答であった。
トヨタはマーケットリサーチを繰り返して仕様を決定した。軽量でシンプルなボディ、故障が少なくてコンパクトな水平対向空冷エンジン。駆動形式は当初FFが採用されたが、後に技術的な問題からFRに変更された。この決定には、米国からの視察から戻った長谷川龍雄が関わった。1960年の全日本自動車ショーに「トヨタ大衆車」として登場。その後公募によって「パブリックカー」からの造語である「パブリカ」の名前が与えられた。
1961年、東京渡しで38万9千円の価格が発表されて6月30日から発売が開始された。「ゲートキーパーズ」で浮矢の父親が乗っていた車がパブリカである。
開発に時間がかかったが、その分パブリカは良い車だった。航空機の技術の応用であるモノコックボディが採用され、軽自動車並みのの重量だった。FRとした事によってバランスも良く、軽くて28馬力のUP型エンジンは故障しらずで加速も燃費も良かった。維持費もオイル消費の激しい2サイクルの軽自動車より安かった。
しかし、パブリカは思ったほど売れなかった。当時の岩戸景気にわいていた世間では、高性能だが簡素なパブリカよりも、見た目が豪華な軽自動車の方が、税制上の優遇措置もあって売れたのである。そのために、1963年になってトヨタはパブリカのマイナーチェンジと値下げを行った。外装と内装に手を加え、見栄えの良くなったパブリカは70パーセントも売上が上昇した。この事はトヨタに大衆車といえども見栄えは大切であるという教訓を与えた。これは、後のカローラで生かされる事になる。
パブリカはその軽量な車体を生かしてレースでも活躍した。パブリカのバリエーションにはコンバーチブルもあり、すでにライトウェイトスポーツとしての素質を見せていたと言えよう。
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