未来に想いをはせるキャラクター達

 ゲームをプレイされた方なら御存知のように、それぞれのキャラが、事あるごとに「将来への漠然とした不安」を語る訳ですよ。これはルリ子シナリオで特に明確なのですが。で、その対比のような形で、「過去」にこだわりを持った雪乃や、過去と現代の橋渡しになる司令のようなキャラが居る。
 そんな図式です。
 だもんで、最後のムービー(アニメパート)での浮矢の独白なんかは、それをズバリ言っちゃってます。そして司令と浮矢の関係は、世代交代を象徴しているんですね。
(ああ、それにしても情けない。自分の作品について語るなんて。しかし、誰もインタビューで、ここまで突っ込んで聞いてくれないもので。トホホ)

 で、最後の最後。エピローグに相当する、万博の時に埋められたタイムカプセルのエピソード。これは「どんな時代になってるかなァ」とキャラクターに言わせることで、結末をプレイヤーに放り投げているんです。恐らく「良い未来になったぞ」と思う人もいれば、「ダメダメな未来になってしまった」と感じる人もいる。
 実は自分自身、今が良い時代なのか悪い時代なのか。明確に言い切れない部分があって。当たり前ですけど。
 その意味で、ハッピーエンドともバッドエンドとも、プレイヤーの心情しだいで、どうにでも取れる終わり方をしてみたつもりです。

 それと。これは勝手な私の思い込みで、他の人に、その考えを押しつける気は毛頭ないんですが。
 いま、こうやって手軽にパソコンで文章を打ったり、性能の良い自動車に安い値段で乗れたり、携帯電話でおしゃべり出来たり、本当の貧乏を知らずに生きていけるのは、みんな、自分より前の世代の人達(含む自分の両親)のお陰だと、心の底から思ってる次第でして。そんな「立派な先人たち」の代表として、司令という人物を立ててみた、というのもあります。  この部分に関しては、浮矢やルリ子の両親を登場させたTVアニメの方で、より明確になっていますね。
 ゲーム版でもアニメ版でも、イヤな大人、ダメな大人というのは出したくなかった。表面的にはダメに見えても、実は家族の事を考え、自分の仕事を一所懸命にやっている人だった。TVアニメ版での浮矢の父、俊次朗に、この役割を託しています。

 簡潔に書いてしまうと、ゲーム版では「未来への希望と不安」そして「先人への敬意」が大きな主題であり、TVアニメ版では後者の方を、より膨らませてみた訳です。
 さらに言うなら、アニメでは、ルリ子やかおる、あるいは麗子を通じて「自分に自信を持つこと」を描いてみました。だからこそ、自分に自信を持てなかった恵が、ラスト、敵側に寝返ったと。

 信じる心がゲートを開く、というと、少しカッコ良すぎますかね(笑)。



そしてTVアニメへ

 え? ホントにやるの? マジ? 本当?
 というのが、TVアニメ化の際の感想でした。
 もちろん、それを狙って立てた企画でもあった訳ですが、実際にやるとなると、それはそれで、苦労の連続でした。
 特にゲーム版では、自分が監督も兼ねていたので、最終的な判断は全て自分自身で下せるんですよ。ところがアニメの場合は、一応は原案者である私と別に、現場の責任者である監督がいる(しかもゲートの場合は制作上の都合もあり、総監督と監督の二人体制でもあった)。そのため意思統一を、きっちりとやっておく必要があるんですね。脚本にしても、到底、自分一人では書ききれないし。

 今回の本はゲーム版がメインというお話なので、TVアニメでの詳しいことは割愛させて頂きますが、前出の「意志統一」という点が、けっこう大変な部分だったことは間違いありません。人数で言っても、ゲームでは十数人規模という非常にコンパクトなスタッフ編成でしたが(だから大変だったという説もあり)、アニメだと数百人規模になる。そのため時に、舞台が1969年というのが忘れられる事もあるんですよ。さらにゲームと違い、全てに絵が付くアニメですから、なおさら。
 例えば買い物袋ひとつとっても、一つ間違えば、コンビニの袋みたいに白く塗られてしまう。あの不透明のビニール袋みたいなヤツですね。ところが、この時代はザラザラした茶色の紙袋が一般的じゃないですか。持ち方にしても、コンビニ袋みたいに手提げがないから、抱えて歩く。あるいは買い物カゴに入れてしまう。これは効果音にしても同じことで、車のエンジン音に、キャブレターの吸気音が混じってない、とか。
 とは言うものの、1969年以降に生まれたスタッフも多いですから(笑)。
こればかりは、仕方の無い部分ではありますね。出来る限りの資料はこちらで用意しましたが、ゲームの時みたいに(監督として)、全てに目を光らせることも出来ませんし。

 ただ、結果としてはスタッフのチームワークは良く、また作画のクオリティも非常に高く、素晴らしいフィルム(あ、デジタル作品か)になったのでは無いかと、自画自賛モードに突入したりもします。わはは。

 また内容そのものにしても、良い意味で、当時の「大らかさ」が出ており、当初の目標だった「TVマンガ」に仕上がったのではないいかと。  もっとも一部では「ストーリーが単純すぎ」とか「お話が無い」とか「人間ドラマが薄い」なんて言われもしましたが、それもまた狙ってやっている事なので、全て良し、と。
 何より、最近のアニメに見られがちな「設定のための設定」や「ウジウジ悩むのが人間ドラマだ」という、ある面、歪んで捕らえられてしまっている部分を、極力、排除しようとして始めた作品なだけに。

 考えようによっては、現在(2000年12月)私がやっている『アルジェントソーマ』対極の作品のようにも見えますが、あちらも、個人的には同じ気分でやっているんですよ。ええ。冗談のように聞こえますけど。ただ、陰と陽の違いだけです。自分の中のネガティブな部分とポジティブな部分を、それぞれ膨らませて書いてるだけなんですね。
 こんなこと書くと、気恥ずかしいですけど(笑)。



そして次は……あるの?

 さてさて。紙数も尽きてきました。このソフト不況の中で、TVアニメ版の『ゲートキーパーズ』は、予想に反して(?)けっこう売れてるようで。いやはや。これも全ては、皆さまのお陰だと感謝する次第です。
 で、資本主義の大原則としてですね。やっぱりあるんですよ。そう。「次」のお話が。
 ただし、まだまだ「話がある」という段階ですので、どう転ぶかはサッパリ判らないんです。媒体も含めて。ひょっとしたら、近所の公園を回る紙芝居なのかも知れないし。いや、それも面白いんじゃないかな、なんて思ったりしますけど。
 まあ仮の話として、もし次があるとしたら。

 同じキャラ、同じ時代でやっても作品が閉塞していくだけなので、恐らく、全く異なった展開でやることになるでしょうね。多分。 あとは、前作のファンの皆さまの期待に答えつつ、期待を裏切ると。
 とりあえず書けるのは、こんな程度でしょうか。
 いや、オトナの事情的に、これ以上は秘密なんですわ。あはは。
 まあ数ヶ月後には、何らかの結論は出ていると思います。
 そう、21世紀の最初の春頃には。
 あ、そう言われてみれば、もうすぐ21世紀なのに、街中には、透明なチューブウェイも通ってなければ、車にはタイヤが付いたままですよねぇ。そういう自分も、銀色の服とか着てないし。
 ごめんよ浮矢くん。
 21世紀は、所詮こんなモンだった(笑)。

 さて。こんな製作者の駄文に、ここまで付き合って下さった皆様。そして、SF大会で「ゲートキーパーズの部屋」という企画を実行して下さった上、このような立派な本を作って下さったHARUNAの皆様。改めて、深く感謝の意を捧げつつ、締めくくりの言葉に代えさえて頂きたいと思います。
 それでは次回作『ゲートキーパーズ21』でお会いしましょう。

 多分……。


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